こざかなの素

健康は大事

「老いる」その先

本日は旧敬老の日で、現在は「老人の日」となっています。そして9月15日から1週間は「老人週間」です。

先週、自分にとって身近な高齢者である親の食事問題を解決すべく、宅食サービスを申し込みました。週明け早々に届いたので、さっそく食べてもらいましたが……

何というか、物事はスムーズにいかないものです。

寝たきりというわけではなく、自分で身の回りのことは出来る人です。
作業としては、冷凍で届いたパックを温めるだけで、何も難しい手順は必要としていません。
何が起こったかというと、冷凍もので「端を少し開ける」という注意書きを読まずにそのままレンジに入れてしまったため、中で爆発して主菜と副菜がすべて混じってしまった状態になりました……。
(それでも美味しかったらしいですが)

後日、私も自分用に注文したメニューを2食ほどいただきました。
ここで業者さんの名前やメニューを書くとただのレビュー記事になってしまうので控えますが、どちらも美味しかったです。完食出来ましたが、私の胃のサイズではかなりお腹が一杯になり、昼に食べた時は夕食を軽く済ますほどでした。

宅食サービスを必要としているのは主に父です。母が旦那の食事の用意をするのが大変、との理由です(自分だけなら残り物でも何でもいいと言っている)
最初に注文する前に、(父の)味の好み、苦手な食材、歯など身体的理由で食べられないもの、1日のうちに何食分を食べるのか(昼夜なのかどちらか1食か)、何週おきにするかなど、母に確認しました。
しかし話し合っているうちに面倒になってきたのか、「あんたに任せる」と丸投げしてきたので、鶏肉・豚肉・魚など見繕って数食を注文しました。

そしてパッケージを爆発させた日以降、冷凍室を見たらまだ1食も食べていないようで、なぜ食べていないのか聞いてみたら……

「あんたが食べておいしいかどうか聞かせて」

 

また脱力感に襲われました。
「ご飯作るのがしんどくなってきたから、お弁当みたいなの頼んで」
「(細かいこと考えるの面倒だから)あんたに任せる」
はい、注文して届いたよ。
「あんたが食べておいしいかどうか聞かせて」

なに、この流れ。
事象の因果関係が破綻して何が何だか分かりません。

こんな感じのやり取りが日に何度もあり、こちらが混乱してつい強い口調になって言い争いに発展してしまうことが多いです。そうなるともう泥沼状態になるので、私が話すことは必ず否定から入り、本筋の話そっちのけで愚痴と卑下の嵐に突入です。

kozakanam.hatenablog.com

 

スーパーに行くと、時々見知らぬお婆さんに話し掛けられます。
先日も、同じ売り場にいた老婦人がとても穏やかな口調で声を掛けてきました。

「サバ缶てどこかしら?」
「まあ、こんなに高いのねぇ~」
「あら、こっちは値段が全然違うわね、やっぱり高い方は美味しいのかしらね」

通りすがりの見知らぬ人で、家の中ではどんな人か分かりません。
が、少なくとも母のような鬱々とした気配は微塵も感じられず、立ち居振る舞い、口調(声の強弱)からも日々楽しく過ごしているのだろうな、という印象の人でした。

人生100年時代、長寿は喜ぶべきことなのだと教えられてきました。自分より長く生きている人を敬い、祝うことは悪いことではないと思います。

しかしここ数年(というかだいぶ前からかな)、特にコロナ禍に突入してからは果たして「長く生きているだけ」ということは、本人にとっては幸せなことなのか、疑問に思う人が増えたような気がします。
介護施設での職員による虐待や、老老介護での事件など、ニュースを見るたびにやるせない気持ちになります。介護する側の精神的負担までは、詳しく報じられることはほとんどないのです。ニュースを見て「お年寄りに手を挙げるとは、なんて酷い奴だ」と考える人も多いでしょう。

日常的に意思疎通に難のある高齢者と接している人は、加害者の気持ちも、報道で事件を知った人の気持ちも両方分かると思います。

とても繊細な問題で軽率に扱うことが出来ない課題ですが、いつか日本も決断しなければならない日が来るかもしれません。

自分はまだ敬われるほどの年齢ではないので、そういう制度が出来たとしてもまだ先の話になりますが、個人的には、突然の引き際に部屋に洗濯物が干しっぱなしだったら嫌だな、という思いが常にあります(笑)。
自分はともかく周りが少しでも慌てないようにしておく準備は大事です。
(と言いつつ数年前に買ったエンディングノートは放置状態)